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アルファ・レコード 前編 [ミュージック]




まずは、11/12付朝日新聞の書評欄から

アルファの伝説 音楽家 村井邦彦の時代 松木直也〈著〉
新しい「環境」作った独自の感性
録音スタジオがミュージシャンにとってどれだけ意味があるか。1960年代から70年代にかけ、この国のポピュラーミュージックが新しい意識でそれに取り組んだことで、音楽性も変わった。つまり、ここに書かれているのは、新しいスタジオが生み出した音の意味だ。
本書は、「アルファ」というレコード会社(初期は音楽出版社だが)の歴史が描かれ、特に、荒井由美(=松任谷由美)が主導する初期の姿が多くを占める。当時のアルファを支えたのが、赤い鳥と松任谷由美だったから仕方がないとはいえ、そのあいだ「音楽家」としての村井は背後に時折、姿を見せるだけだ。それが村井邦彦のスタンスだった。
だが、ここで、村井に与えられた「音楽家」という呼称は、ザ・テンプターズのヒット曲「エメラルドの伝説」など多くの楽曲を作った仕事だけではなく、なにより新しい「環境」を作った人物を意味する。
村井はアメリカとの強いコネクションを元に大手レコード会社A&Mと契約する。アメリカで村井がなにを観てきたか。その経験のひとつひとつから、いかにいいスタジオを作るかという重要性を村井が感じたのは、過去の歌謡の世界における「音楽家」とはまったく異なる。当時としては独自の感性だ。
いまある日本のポップミュージックは、突然、生まれたのではない。その系譜の中にアルファの役割の大きな意味と新しい音楽家の姿がある。つまり、後年、YMOがアルファから登場したことも偶然ではないことを本書は語る。
そのためには成熟が必要だった。もちろん村井だけの業績ではなく、大瀧詠一、加藤和彦をはじめ、日本のロックの系譜は多くの試行から育った。その「試行」とは楽曲だけの成果ではない。本書が強調するように、「アルファ」という環境が生み出した側面を見逃すわけにはいかない。
評・宮沢明男
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[アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代 河出書房新社

アルファ・レコードといえば…
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かつてレコード・コレクターズ誌にも「アルファの宴~YMOを世に出したレコード会社の興亡」という記事が連載(2006年4月号から2007年12月まで20回)されていました
毎回とても興味深く読ませていただいたのですが、こちらは未だに単行本化されていないようで、ちょっともったいない
なので、その連載記事の中から私の趣味に基づき、いくつかのエピソードをピック・アップしておきたいと思います
なお、(古くからのうちの読者の方ならご存知だと思いますが)私は邦楽にあんまり興味ないので(笑)、洋楽部門に絞った展開になるかと思います

さて…
そもそも私がアルファを初めて認知したのは、(上記書評にもチラッと出てきますが)A&Mの配給元としてでした
A&Mには、ポリススティクス、スーパートランプ、ピーター・フランプトンなどが在籍していて、お気に入りレーベルの一つであったのですが、1978年にちょっとした異変が起こります
それまでキングから出ていたレコードが、アルファなんぞという聞いたこともない会社に突然配給元が変わったのです

この辺りの事情は、「アルファの宴」にもハイライトの一つとして当然記載がありました
村井邦彦は1969年に音楽出版社アルファ・ミュージックを設立、さらに原盤制作会社アルファ・アンド・アソシエイツも立ち上げ(販売は東芝に委託)、このアルファ・アンド・アソシエイツが77年暮れにアルファ・レコードとして再出発することになります
ついに独立したレコード会社になったわけですが、独立後1年くらいは思ったようなセールスに結びつかず(ヒットしたのはサーカスの「Mr.サマータイム」くらい)、かなり苦戦を強いられたようです
以下、「アルファの宴」からの引用です

「A&Mがとれたよ!」
古株の社員で録音課の責任者、吉沢典夫はアメリカの村井からかかってきた一本の電話で初めて、A&Mレコードの日本での販売権をアルファが得たことを知ったという。
「アルファがレコード会社になったからといって、現場に大きな影響はなかったんだ。音楽を作ってそれをレコードにするという仕事はアソシエイツ時代と変わらなかったから。でも、A&Mがアルファで発売できるってなった時は物凄く興奮したな。僕はずっとA&Mレコードのファンだったからね」
ご存じの方も多いだろうが、A&Mレコードとは1962年にハーブ・アルパート、ジェリー・モスという二人のミュージシャン、プロデューサーが創設したアメリカの独立系のレコード会社で、カーペンターズやセルジオ・メンデスといった世界的に売れたポップス系の大物や、ピーター・フランプトンのような70年代ロックの人気者、80年代前後にはジョー・ジャクソン、ザ・ポリスのようなパンク/ニュー・ウェイヴ系まで、ジャンルに囚われずに多くのヒット・メイカーを輩出した、ある意味ではアルファのお手本のようなレコード会社である。そして、キング・レコードが持っていた日本での配給権を、79年9月に電撃的にアルファが獲得した。
実はA&Mとキングの契約が78年に切れるのを待って「次はうちが」と狙っていた日本の大手レコード会社は多かったようだ。当のキングも契約更新を考えていただろう。それをできたばかりのアルファが鮮やかにかっさらってしまったのだ。業界には衝撃が走ったという。

アルファとA&Mの争奪戦を繰り広げたビクター音楽産業の金子秀のインタビューも引用しておきます

「A&Mがキングから離れそうな時に、いろんな日本のレコード会社が狙っていたと思うよ。もちろん自分がいたビクターもそう。A&Mは個人的に、アーティストが作ったレコード会社で音楽の質が高いところが好きだったな。社長のジェリー・モスは昔から知っていたしね。で、キングとの契約が切れる時にジェリーに会って条件の話もして、契約しようという寸前までいっていた。僕の感覚では、口頭では契約成立、あとは契約書を作ってサインを待つのみという段階だった。ところが2~3日したら連絡があって、“アルファがすごく大きな金額でオファーしてきたからそっちにしたい”と。さすがにその時は腹が立ったね。相手は俺じゃねえか、と。でもちょっと冷静になったら、それも一理あるな、と(笑)。その時は結局、じゃあ配給はビクターで、ということで話がついた。アルファが企画をし、発売を決定したものをビクターで扱う。ビクターにしてみれば、間にアルファは入るけれどともかくも念願のA&Mは獲得できた、という形だね。それで村井君とは決裂しないですんだ。邦楽部門も含めて配給をビクター一括にしてくれたのは、彼も気を使ってくれたんじゃないかなあ? これは一発の話し合いでそう決まった」

そして、獲得したA&Mの効果は?

村井が見込んだ通り、A&Mの商品価値は高かった。A&M獲得の翌年、79年に発売したスーパートランプの『ブレックファスト・イン・アメリカ』やリタ・クーリッジの『あなたしか見えない』などが年間チャートに入り、売り上げは前年の約3倍。レコード会社の売り上げ順位も3位に上がっている(『オリコン』年鑑調べ)。当時アルファに在籍し、現在はフリー・プロデューサーとして音楽業界で活躍する宮住俊介は語る。
「78年にアルファのディレクターとしてビクターの地方営業所を回った時に何気なく、“今度ウチにA&Mが来ますよ”ってビクターの方に言ったら万歳三唱されて大歓待を受けましてね。僕は邦楽系アーティストの担当だったんで事情がよく分からないまま、当時はなんでこんなに喜んでくれるんだろうって思いましたけど、A&Mっていうのはそれだけ大きいタマだったんですね。レコードを売る現場にいる彼らにはそれがよく分かっていたんでしょう」

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しかし、A&Mの効果はそれだけには留まりませんでした
もう一つ、真の目的がありました
村井邦彦がビジネス・ヴィジョンを語っています

「シナリオとしては、アルファをいっちょ前のレコード会社にするという意味合いかな。自社制作の邦楽があり、そこに洋楽のライセンスも獲得して、これで両輪揃ったということですよね。で、いざA&Mを獲得してみると、自分よりも周りが“A&Mを獲るなんて凄い! アルファは一流だ”みたいにとってくれてたみたいだね。でも僕にしてみると、もともとはスクリーンジェムズ・コロムビアのライセンシーを70年に獲得した時に、ルー・アドラーみたいな重要な関係者と人脈ができているんだね。で、ルーの弁護士で今も僕と親友のエイヴ・サマーがA&Mのジェリー・モスの弁護士でもあった、と。僕としては70年前後からの連綿とした付き合いがあるわけで、77年に突然申し込んでビジネス・パートナーになったわけではない。以前のビジネスを通じての下地はあったんです。そこで僕が重要視したのは、“双務契約”ということ。赤い鳥の頃から僕はなんとか日本製の音楽を世界に出したいという思いがあって常にそのための努力をしていましたから。A&Mと契約する時には”自分たちアルファはそちらのカタログを日本で一生懸命売る。だからそちらもアルファが押すものを世界のルートで売ってほしい”と」

海外の販売網を獲得することがA&Mとの契約の重要なテーマであったわけです
当時そこまで周到に準備を進めていたとは…アルファの世界戦略恐るべし

今日の1曲
私が初めて買ったアルファのレコードはポリスのReggatta De Blanc 『白いレガッタ』(AMP-6065)でした
1980年のポリス初来日時にアルファが仕掛けたプロモーションについても記載があるので引用しておきます

「ポリスはA&Mの中ではアグレッシヴなイメージの…要するにパンクの流れをくんだニュー・ウェイヴのバンドですよね? その彼らをあの西部講堂でライヴさせたらどうだろう?って思いついたんです。”何かが起こるかもしれないから”って呼んだ取材陣も入れてね」(村井)
京大西部講堂とは、71年にロック・イヴェント開催、あの村八分が73年にライヴ・アルバムを残したことでも知られた伝説的なコンサート会場で、どことなく反体制という言葉が似合う場所でもある。そこでパンク/ニュー・ウェイヴのバンド、ザ・ポリスが演奏する。そうすることで立ち昇る場の熱を村井は計算したのだろう。そして80年2月、ツアーの最終公演を行った西部講堂で、やはり事件は起こった。何らかの軋轢からコンサート中に学生が乱入したのである。《京大を襲った『ポリス』 ニュー・ウェイヴのコンサートで西部講堂に何が起こったのか》というタイトルで『週刊ポスト』に掲載された記事(80年3月14日号)によれば、「京大自治会で話を通されなかったセクトの一部から演奏中、演奏後と横ヤリが入った」のだが、他にも、西部講堂周辺でダフ屋の行為に怒った学生が激高してステージに昇ったという説もあり、いずれも演奏中に乱入してきた男にメンバーのスティングが頭から水を浴びせて退散させた、という落ちが伝説となっているようだ。

Message In A Bottle 「孤独のメッセージ」/ The Police
https://www.youtube.com/watch?v=7Hip-X7kQ9w
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白いレガッタ 紙ジャケット仕様

今日のもう1曲
スティングがミレーヌ相手に外貨稼ぎやっているのを見つけました
Stolen Car / Mylène Farmer, Sting
https://www.youtube.com/watch?v=HQkkmYIu95I
スティングの頭部は…予想できたとは言え、ショックです


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コメント 2

sknys

レガッタ(regatta)の綴りが「reggatta」になっているのは
レゲエ (reggae) に掛けているんでしょうね。
一生遊んで暮らせる大金を若くして手に入れてしまった青年は
次に何をするのか?
某レコード店でシングル盤(ミレーヌ姫との2ショット)を見て、
スティング先生もルーニーみたいに植えちゃったのねと落胆しました。
もしジョン・ライドンや内田裕也が被ったらギャグになっちゃう^^
アート・ガーファンクルは被っちゃいましたが‥‥
もちろんミレーヌのアルバムは昨年購入しました。
by sknys (2017-01-09 23:25) 

モバサム41

sknysさん、いつもありがとうございます
えっ、スティングは、あれでも植毛してるんですか?
でも、まあ、いいじゃないですか
人形は目が命、男は髪の毛が命でしょう?
by モバサム41 (2017-01-25 22:24) 

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